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昭和の御三家歌手・橋幸夫さんが離婚!その理由と経緯について

昭和時代に絶大な人気を記録した歌手の橋幸夫さんですが、2018年3月1日、長年連れ添った妻と離婚していたことが明らかになりました。

おしどり夫婦として知られていた二人だったため話題になり、メディアでも大きく取り上げられました。

今回は、離婚の理由や経緯を、橋幸夫さんのプロフィールと併せてご紹介します。

 

橋幸夫さんのプロフィール

橋幸夫さんは1943年5月3日、東京都に生まれました。

呉服屋の9人兄弟の末っ子として育った橋幸夫さんは、子供時代は悪童で周囲を騒がせていたらしく、これに困った母親が歌謡教室に通わせ始めます

この歌謡教室は、戦後歌謡界を代表する作曲家の遠藤実さんが指導している教室で、橋幸夫さんの歌手人生はこれがきっかけとなります。

歌の才能を開花させていった橋幸夫さんは、1960年にシングル「潮来笠」をリリースし、デビューを果たします。

この曲は大ヒットを記録し、第2回日本レコード大賞新人賞受賞、第11回NHK紅白歌合戦に初出場することになります。

紅白歌合戦にはこの年から1976年まで、17回連続出場を果たし、歌謡界にその名前を浸透させていきます。

昭和歌手の御三家として大人気

昭和の歌謡界の御三家というものがあり、その一人として橋幸夫さんが挙げられます。

他には舟木一夫さん、西郷輝彦さんが御三家と称され、そのルックスと歌唱力からアイドル的な人気を集めました

その人気は絶大で、特に60年代に発表された楽曲のほとんどが番組などのタイアップに使用され、橋幸夫さんの歌声は当時の世間では広く聞かれていました。

1966年にはシングル「霧氷」で第8回日本レコード大賞を再び受賞し、史上初の2度目の大賞受賞ということで大きな注目を集めます。

人気絶頂期の1963年にはコンサート中に軍刀を持った暴漢に襲われるという驚きの事件がありました。

しかし、橋幸夫さんは持ち前のガッツで軍刀の刃を強く握りしめ、暴漢を取り押さえてしまいます。

当時を振り返った橋幸夫さんは「ボクシングをやっていたから危機を凌ぐことができた」「刀を強く握っていなかったら、指をすべてもっていかれた」とコメントしています。

その時の後遺症は今でも残っており、左手の小指をまっすぐ伸ばすことができないそうです。

 

妻との出会い

妻である橋凡子さんとの出会いは、飛行機の中でのことでした。

仕事でハワイに向かっていた橋幸夫さんは、当時国際線の客室乗務員をしていた橋凡子さんと出会います。

帰りの飛行機で、二人は再会。

橋幸夫さんはこれに運命を感じ、橋凡子さんもファンだったことから二人の仲は急接近し、交際を始めます。

そして、交際から約2年後の1971年、二人は結婚します

二人の子供にも恵まれ、お互いが結婚生活について語った共著を出版するなど、順調な家族生活を送っていました。

離婚の理由は?今後の活動について

運命的な出会い、仲の良い夫婦として知られていた二人でしたが、実は2016年11月から別居をしていたそうです。

この頃から離婚に向けた話し合いを重ねていき、2017年末に離婚が成立します。

結婚から47年、熟年離婚ということもあり注目を集めました。

離婚理由については橋幸夫さんからのコメントは特に発表されていませんが、以前受けたインタビューでは「人生の最後は、ひっそり一人で自由な生き方をしたい」と語っており、妻との関係については「出会いは運命的なものだったけれど、性格は水と油」と評していた事もあります。

お互いに何かがあって離婚したということではなく、人生の最後に別々の道を歩んで好きに生きることで合意し、離婚が成立したとのことです。

離婚後の橋幸夫さんの活動ですが、大きな変化はありません。

離婚後翌年の2018年2月下旬にはツアーを開催しており、今後の活動について大きな影響はないと見られます。

 

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